初心者でもめざせ

トレンド相場を学ぼう

トレンド相場を学ぼう
リセマム

👩‍🎓|高校生が好きな歴史上の人物「伊能忠敬」に学ぼう!公開


写真 高校生が好きな歴史上の人物「伊能忠敬」に学ぼう!

高校生が好きな歴史上の人物「伊能忠敬」に学ぼう!公開

内容をざっくり書くと
「伊能忠敬」は、初めて日本地図を完成させた人として知られている。

リセマム

Wikipedia関連ワード

延享2年(1745年)1月11日、上総国山辺郡小関村(現・千葉県山武郡九十九里町小関)の名主・小関五郎左衛門家で生まれた。幼名は三治郎。父親のは武射郡小堤村(現・横芝光町)にあった酒造家の次男で、小関家には婿入りした。三治郎のほかに男1人女1人の子がおり、三治郎は末子だった [4] 。

神保家での三治郎の様子についても文献が少なく、詳細は知られていない [8] トレンド相場を学ぼう 。三治郎は神保家には定住せず、親戚や知り合いのもとを転々としたと言われている [9] 。常陸(現在の茨城県)の寺では半年間そろばんを習い、優れた才能を見せた [10] 。また17歳くらいのとき、「佐忠太」と名乗り、土浦の医者に医学を教わった記録がある [11] 。ただしここで習った医学の内容はあまり専門的なものではなく、余興の類だったといわれている [9] 。

伊能家に婿入り

伊能家・神保家の両方の親戚である平山藤右衛門(タミの兄)は、土地改良工事の現場監督として三治郎を使ったところ、三治郎は若いながらもいい仕事ぶりを発揮した。そこで三治郎を伊能家の跡取りにと薦め、親族もこれを了解した [13] 。三治郎は形式的にいったん平山家の養子になり、平山家から伊能家へ婿入りさせる形でミチと結婚することになった。その際、大学頭の林鳳谷から、忠敬という名をもらった。

当時の佐原と伊能家

当時の佐原村は天領で、武士は1人も住んでおらず、村政は村民の自治によって決められることが多かった [16] 。その村民の中でも特に経済力が大きく、村全体に大きな発言権を持っていたのが永沢家と、忠敬が婿入りした伊能家であった [17] 。伊能家は酒、醤油の醸造、貸金業を営んでいたほか、利根川水運などにも関わっていたが、当主不在の時代が長く続いたために事業規模を縮小していた。他方、永沢家は事業を広げて名字帯刀を許される身分となり、伊能家と差をつけていた。そのため伊能家としては、家の再興のため、新当主の忠敬に期待するところが多かった [18] 。

佐原村本宿は大きく、本宿組と浜宿組に分かれていた。忠敬と永沢は分担して、忠敬は本宿組の各町を、永沢は浜宿組の各町を説得し、ようやく各町の同意を取りつけた。ところが祭礼2日目、永沢家が説得したはずの浜宿組において禁が破られ、山車が引き回されるという事態が発生した。本宿組の町民はさっそく忠敬を問い詰め、忠敬も永沢家に赴き責任を追及した。しかし本宿組の担当者はそれだけでは納得がいかず、浜宿組が出したのだからこちらも山車を出すと強硬に主張した。忠敬は、このままでは大きな争いになるのは必至で、町内に申し訳が立たないと感じたため、伊能家は永沢家と「義絶」すると宣言した [24] [25] 。義絶とはどのような状態なのかは詳しく分かっていないが、伊能家は永沢家と今後一切の付き合いをなくすという意味であると推定される [26] 。これにより、各町は山車を出すことをようやく取り止めた。とはいえ佐原で「両家」と言われ、富と名声を持っていた2つの家の義絶は村にとっても良くないと考えられたため、仲介によって、同年に両家は和解することとなった [24] 。

この事件で重要な役割を果たすことになった伊能家の古い記録の多くは、忠敬の三代前の主人であるがまとめあげたものだった [31] 。景利は佐原村や伊能家に関わることをはじめ、多くのことを丹念に記録に残しており、その量は本にして100冊以上になっていた [34] 。忠敬はこの事件で記録を残すことの重要性を身にしみて認識し、自らもこの事件について『佐原邑河岸一件』としてまとめた [35] [36] 。また、先祖の景利が多くの記録をまとめ始めたのは、隠居したあとになってからのことだった。この、隠居後に大きな仕事を成し遂げるという祖先の事例は、のちの忠敬の隠居後の行動にもつながることになる [37] 。

佐原村名主へ

同じ年、これまで天領だった佐原村は、旗本の津田氏の知行地となった。忠敬は名主や村の有力者と、江戸にある津田氏の屋敷に挨拶に出向いた。そのとき、名主5人と永沢治郎右衛門は麻の裃を着用していたのに対し、忠敬は裃の着用を許されず、屋敷内で座る場所も差をつけられた [40] 。これは永沢が名字帯刀を許された身分だったためであるが、商いが順調なのに相変わらず永沢家と身分に差をつけられていることに悔しさを感じた忠敬は、永沢に対抗心を燃やすようになった [41] 。しかし、そのうちに忠敬の待遇も上がり、天明元年(1781年)、名主の藤左衛門が死去すると、代わりに忠敬が36歳で名主となった [42] 。

名主としての忠敬

天明の大飢饉

浅間山の噴火以降、佐原村では毎年不作が続いていた [48] 。天明5年(1785年)、忠敬は米の値上がりを見越して関西方面から大量の米を買い入れた。しかし米相場は翌年の春から夏にかけて下がり続け、伊能家は多額の損失を抱えた [49] [50] 。周囲からは、今のうちに米を売り払って、これ以上の損を防いだ方がよいと忠告されたが、忠敬は、あえて米を全く売らないことにした。

妻・ミチが死去してから間もなく、忠敬は内縁で2人目の妻を迎えた。この妻については詳しいことは分かっておらず、名前も定かではない [58] 。天明6年(1786年)に次男・秀蔵、天明8年(1788年)に三男・順次、寛政元年(1789年)に三女・コト(琴)が生まれ、妻は寛政2年(1790年)に26歳で死去した [59] 。一方、最初の妻・ミチとの間に生まれた次女・シノも、天明8年に19歳で死去した [59] 。寛政2年、忠敬は仙台藩医である桑原隆朝の娘・ノブを新たな妻として迎え入れた [60] 。

このころ、長女のイネは既に結婚して江戸に移っており、長男・景敬は成年を迎えていた [61] 。忠敬は、景敬に家督を譲り、自分は隠居して新たな人生を歩みたいと思うようになっていった [62] 。そして寛政2年、地頭所に隠居を願い出た。しかし地頭の津田氏はこの願いを受け入れなかった。これは、当時の津田氏は代替わりしたばかりのころだったため、まだ村方後見として忠敬の力を必要としていたからである [60] 。

  • 第一 仮にも偽をせす孝弟忠信にして正直たるへし
  • 第二 身の上の人ハ勿論身下の人にても教訓異見あらは急度相用堅く守るへし
  • 第三 篤敬謙譲とて言語進退を寛容に諸事謙り敬み少も人と争論など成べからず

忠敬と佐原

  • 酒造 370両3分
  • 田徳・店貸 142両1分
  • 倉敷 30両
  • 運送 39両3分
  • 利潤高 450両1分
  • 米利 231両1分
  • 合計 1264両2分

安永3年(1774年)の目録と比較すると、忠敬は伊能家を再興し、かなりの財産を築いていた [70] 。このときの伊能家の資産については正確な数字は明らかでないが、寛政12年に村人が「3万両ぐらいだろう」と答えた記録が残っている [71] 。この資産は30億 - 35億円程に相当する。

ただし、伊能家の状況は必ずしも順風満帆ではなかったとする説もある。伊能家(三郎右衛門家)が得意としてきた酒造業の実績を示す酒造高は天明の大飢饉後の天明8年(1788年)には1480石を誇っていたが、享和3年(1803年)には600石に減少しており、忠敬没後の天保10年(1839年)には株仲間の記録に伊能家の名前は存在していない、すなわち廃業状態にあったことを示している [72] 。これは伊能家だけではなく、競合する永沢家も含めて天明期の仲間35家のうち22家が天保期に姿を消し、代わりに天明期に存在が確認できなかった14家の新興酒造家が名前を連ねている状況 [73] から、江戸幕府の度重なる酒株政策の変更に伊能家を含めた旧来の酒造家が対応しきれなかったことが背景にあるとみられている。また、貨幣経済の浸透は旗本などの中小領主たちに・御用金・領主貸などの手段による貨幣の確保に向かわせることになった。先納金は年貢米を貨幣で前借することであるが、実際には貨幣による年貢徴収の口実とされて結果的には年貢米の輸送減少をもたらし、御用金や領主貸は伊能家のような地方商人への負担となった。また、農村の疲弊は伊能家から村単位への貸付の増加になって現れており [74] 、その中にはこれらの村が御用金や先納金を納めるための貸付もあったとみられている。さらに伊能家の土地所持高を見ると、享保5年(1720年)には52石7斗あまりだったのが、忠敬の相続後である明和3年(1766年)には84石1斗あまり、隠居後の享和2年(1802年)には145石1斗あまりと、忠敬当主時代に急激に増加しているのである トレンド相場を学ぼう [75] 。これは金融業における質流れの増加とともに忠敬が酒造や輸送業に限界を感じ、土地の集積へと軸足を移そうとしていたことの表れとされる。実際に隠居後の忠敬が佐原に送った書状には「店賃と田の収益ばかりになっても仕方がない」「もし、古酒の勘定もよくなく、未回収金が過分になったら酒造も見合わせてやめるように」などと記しており、特に後継者であった景敬が没した文化9年(1812年)以降には、酒造業や運送業、領主貸を縮小する意向を示している。しかし、地主としての土地経営も小作人となった農民との衝突を招くなど困難な状況が続いており、忠敬隠居後の文化年間に入ると土地集積の対象を山林にも広げている [76] 。

高橋至時に師事

ちょうどその頃、江戸ではそれまで使われていた暦を改める動きが起こっていた。当時の日本は宝暦4年(1754年)に作られた宝暦暦が使われていたが、この暦は日食や月食の予報を度々外していたため、評判が悪かった [80] [81] 。そこで江戸幕府は松平信明、堀田正敦を中心として、改暦に取り組んだ [82] 。しかし幕府の天文方には改暦作業を行えるような優れた人材がいなかったため、民間で特に高い評価を受けていた麻田剛立一門の高橋至時と間重富に任務にあたらせることにした [81] [82] 。至時は寛政7年(1795年)4月、重富は同年6月に出府した [83] 。

同年、忠敬は高橋至時の弟子となった。50歳の忠敬に対し、師匠の至時は31歳だった。弟子入りしたきっかけについては、昔の中国の暦『授時暦』が実際の天文現象と合わないことに気づいた忠敬がその理由を江戸の学者たちに質問したが誰も答えられず、唯一回答できたのが至時だったからだという話が伝えられている [85] トレンド相場を学ぼう 。そして至時に必死に懇願して入門を認めさせたとのことであるが、至時が多忙な改暦作業のなかで入門を許した理由についても、渡辺は、桑原と堀田正敦の影響を指摘している [84] 。一方で今野武雄は、麻田剛立の弟子で大名貸の升屋小右衛門とのつながりを推測している [11] 。

暦学への取り組み

忠敬は天体観測についても教えを受けた。観測技術や観測のための器具については重富が精通していたため、忠敬は重富を通じて観測機器を購入した。さらには、江戸職人の大野弥五郎・弥三郎親子にも協力してもらい [87] 、こうしてそろえた器具で自宅に天文台を作り観測を行った [89] 。取り揃えた観測機器は象限儀、、垂揺球儀、子午儀などで、質量ともに幕府の天文台にも見劣りしなかった [90] 。

観測はなかなか難しく、入門から4年が経った寛政10年(1798年)の時点でもまだ至時からの信頼は得られていなかった [91] [92] が、忠敬は毎日観測を続けた。太陽の南中を測るために外出していても昼には必ず家に戻るようにしており、また、星の観測も悪天候の日を除いて毎日行った [93] 。至時と暦法の話をしていても、夕方になるとそわそわし始めて、話の途中で席を立って急いで家に帰っていた。慌てるあまり、懐中物や脇差を忘れて帰ったりもした [94] 。

長女の勘当と再婚

子午線一度の距離測定

第一次測量(蝦夷地)

測量の許可

至時はこうした北方の緊張を踏まえたうえで、蝦夷地の正確な地図を作る計画を立て、幕府に願い出た。蝦夷地を測量することで、地図を作成するかたわら、子午線一度の距離も求めてしまおうという狙いである [107] 。そしてこの事業の担当として忠敬があてられた。忠敬は高齢な点が懸念されたが [108] 、測量技術や指導力、財力などの点で、この事業にはふさわしい人材であった [109] 。

忠敬一行は寛政12年(1800年)閏4月19日、自宅から蝦夷地へ向けて出発した。忠敬は当時55歳で、内弟子3人(息子の秀蔵を含む)、下男2人を連れての測量となった [116] 。富岡八幡宮に参拝後、浅草の暦局に立ち寄り、至時宅で酒をいただいた。千住で親戚や知人の見送りを受けてから、奥州街道を北上しながら測量を始めた [117] 。千住からは、測量器具を運ぶための人足3人、馬2頭も加わった。寒くなる前に蝦夷地測量を済ませたいということもあって、距離は歩測で測り、1日におよそ40kmを移動した [118] 。出発して21日目の5月10日、津軽半島最北端の三厩に到達した [118] 。

蝦夷地測量

8月9日にニシベツを発った忠敬は、行きとほぼ同じ道を測量しながら帰路についた。9月18日に蝦夷を離れて三厩に到着し [127] 、そこから本州を南下して、10月21日、人々が出迎えるなか、千住に到着した。第一次測量にかかった日数は180日、うち蝦夷地滞在は117日だった [128] 。なお、後年に忠敬が記した文書によれば、蝦夷地滞在中に間宮林蔵に会って弟子にしたとのことであるが、このときの測量日記には林蔵のことは書かれていない [129] 。

地図作成・事後処理

11月上旬から測量データをもとに地図の製作にかかり、約20日間を費やして地図を完成させた [130] 。地図製作には妻のエイも協力した [131] 。完成した地図は12月21日に下勘定所に提出した [132] 。

第二次測量(伊豆・東日本東海岸)

この計画は、行徳から本州東海岸を北上して蝦夷地の松前へと渡り、松前で船を調達して、船を住めるように改造し、食料も積み込んでから蝦夷地の西海岸を回り、さらにクナシリからエトロフ、ウルップまで行くというものであった [141] 。途中で船を買うことにしたのは、蝦夷地は道が悪く宿舎がないことを見越したもので、用が済んだら船は売り払う計画だった [142] 。また測量器具を運ぶため、人足1人、馬1匹、長棹1棹の持ち人足を要求した [140] [142] 。

今回の測量から、歩測ではなく間縄(けんなわ)を使って距離を測ることにした。一行は三浦半島を一周し、鎌倉では鶴岡八幡宮を参詣。さらに伊豆半島を南下して、5月13日に下田に到着した [146] [147] 。伊豆半島の道は断崖絶壁で測量が難しく、海が荒れるなかで船を出して縄を張って距離を求めたり、岩をよじのぼって方角を測ったりするなど苦労を重ねた [147] [148] 。荷物を運ぶのにも労を要したが、聞いた話によると、下田から先の伊豆半島西海岸はこれに輪をかけて大変だということで、ここまで持ってきた大方位盤は江戸に送り返すことにした [147] [148] 。

本州東海岸測量

6月19日、一行は再び江戸を発ち、房総半島を測量しながら一周し、7月18日に銚子に着いた [152] 。銚子には9泊し、富士山の方角などを確かめた [153] 。また、銚子で忠敬は病気にかかったが、すぐに回復した [152] 。

関連記事

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

目次
閉じる